■心をつかむVol.2

北村の会社は,1階は商品倉庫と営業部があり,2階が北村のいる社長室と経
理部,そして来客用の応接間がある。
2階建ての,さほど大きくない古いビルを一括して借りていた。
北村は,その本社ビルの階段を上着の袖に腕を通しながら,駆け下りていった


「いや〜,お待たせしました,坂田さん。だいぶお待ちになりましたか?」
「私も今来たところです。それより,お忙しくなかったですか?すみません,
急に電話などしてしまって」
「大丈夫ですよ。社長なんて,時間がないようで,自分でどうとでもなるもん
ですから。坂田さんも同じでしょ」
「そうですね。おっしゃるとおり,時間を自分で管理できるところが,いいと
ころですよね,社長の」
笑いながら北村と坂田は,お互い並んで歩き,しばし挨拶程度の世間話が進ん
だ。
「ところで,何を食べますか?この辺は気の利いたところはあまりないですが
・・・」
「北村さんにお任せします。」
と坂田は,右手の鞄を左手に持ち替えながら,言った。
では,と北村は進み道を左手に曲がり,比較的落ち着いた和食の店に坂田を案
内した。

二人が頼んだのは,昼定食ではあるが,いちおうコース料理となっていて,上
品で若い仲居さんが一品づつ料理を運んできた。
お互いの近況や今後の景気の見通し,先日の銀行セミナーの感想などを話しし
たところで,水菓子が運ばれてきた。
北村は,昼の会食の話としてはちょっとシリアスになってしまうが,しかし,
今悩んでいることを坂田の相談してみようと思い立った。

「実は,今ちょっと悩んでいることがあるんですよ」

坂田は,水菓子の中にある季節にはまだ早い西瓜に落としていた目線を,顔を上
げて眉間に少しばかり皺を寄せている北村に向けた。
「どんなことですか?」
「いや,会社もかなり瀬戸際に来ているんです。まだ余裕はあるが,でもこれ
以上業績が下がることは許されない。ぎりぎり徳俵で残っている,っていうこ
とでしょうか。ですから,そんな会社の状況を少しでも社員にわかってもらい
,危機感を共有できればと思って,会社の財務情報の公開を考えているんです
。でも,会社のそんな厳しい数字が外部に漏れたらどうしようとか,社長の給
料の金額までオープンにしていいのか,とかいろいろ悩んじゃってどうしよう
かと思っているんです。坂田さんはどう思いますか?」
坂田は,食べる手を止め,うなづきながら北村の言うことを聴いていた。

「なるほど。僕はもう3年前から,ぜ〜んぶ公開していますよ。」

北村は,思わず「えぇ!」と漏らしてしまった。どちらかというと坂田は地味
目で保守的に見え真面目な社長という印象であり,そんな思い切ったことをや
るようには見えなかったのだ。
「僕も,オープンにするときは,北村さんと同じく,結構悩みましたよ」坂田
は続けた。
「でもね,思ったんですよ。財務情報をオープンにすると言っても,会社名は
マスキングするし,それを見ただけではどこの会社かわからないでしょ。また
それを見たからって実際はどうこうできるもんでもない。だから思い切ってオ
ープンにしてしまいました。でも心配するようなことは起きていませよ。社員
も自覚してくるんじゃないでしょうか。」
北村は,坂田の話をなるほどと思いつつも,本当に心配することはないのか,
とも思っていた。
「でも,社員全員にはオープンにはまだしていません。うちの会社も80人
くらいですから,正直末端の社員まではしっかり保秘できるか自信はありませ
ん。ですから,まずは管理職の係長までオープンにしています。まあ,そこか
ら下に行ってしまう心配もありますが,それは仕方がないと思います。あと,
役員報酬の総額はオープンにしていますが,社長の給料もまだ具体的にはオー
プンにしていません。こればかりは,私はオープンにしないほうがいいと思っ
ています。やっぱり社長がなぜ高い給料が必要なのか,説明しても具体的金額
がわかってしまうと,感情的に納得できないのはないか,ということで。」
坂田は続ける。
「財務をオープンにして,社内の空気というか,雰囲気は変わってきましたよ。
これじゃ,やばいということで逃げ出した社員も2人ほどいましたが,残って
くれた社員は,一致団結して,この難局を乗り切ろうと頑張ってくれています
。なによりも,それまでは,私が指示をしないとまったく動かなかったという
か動けなかったのですが,オープンにしてからは社員のほうから様々な提案が
出てきます。」
「ということは,坂田さんは,財務を社員にオープンにしてよかったというか
成功したわけですね。」
「そうですね,案ずるより生むが易しでしょうか。実施するまであれこれ悩み
ましたがそれほどでもなかった。逆にメリットのほうが多いっていう感じです
。」

「う〜ん,でもなんか踏ん切れないなぁ。大丈夫かなとか,なんかあったらど
うしよう,とか思っちゃいます,僕は。」
「北村さん,人って,どうしてもネガティブに考え勝ちなんですけど,それほ
どひどいことになるってあまり現実にはないと思いませんか?」
「そうそう,僕はいつも悪いほうっていうか,最悪のシナリオを考えてしまう
癖があるんです」
「僕と同じく,案ずるより,でやってみてはどうですか?それでまた問題が出
たら考える。おそらく問題よりも好結果のほうが先に出ると思いますよ」
坂田は,笑いながら,そういって熱いほうじ茶をすすった。

勘定を払う段になっては,来てもらったから私が,いやお呼び立てした私が,
とどこでもよく見る光景となり,結局相談にのってもらった北村が払うことで
落着した。

外に出ると,曇りがちだった空から少し薄れ日が漏れてきていた。
坂田は,急に呼び出したことを詫び,北村は相談に乗ってもらったお礼を言い
,先ほど待ち合わせをした交差点で二人は別れた。
そして,北村は,ある決意を持って会社の階段を,少し駆け足で少し弾むよう
に,登っていった。

<つづく>
                                                                      
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