■「享年52歳」

●「おお,イタリア7日間20万だってよ!安いよこれ。」
日経の夕刊に掲載されている格安旅行の広告を見て,僕は叫んだ。
「最近,安くなったよな〜,海外」異国の地に,とんとご無沙汰の僕は,半分恨めしそうにまた
一人ごちた。
「20万ということは,5人で100万円ね」
妻は,家族5人ということを忘れなかった。
「100万円ということは,一ヶ月2万貯めて10年。あと10年頑張ってみんなで行くのもいいな」
洗い物の茶碗をシンクから取り出し,布巾で拭きあげながら妻は言った。
「10年?!」僕は思わず大声を上げた。
「10年なんて,俺達52だぜ。そんな悠長なことよく考えられるな。行くとしたら今年だよ今年」
「あたしは,10年後でもいいんだけどなぁ。」

●10年後なんてこと,考えもしなかった。
今すぐ,今すぐだ。僕は今までずっとそんな生き方をしてきた。
??なぜ??
なぜ,妻のように,もっと長い目で自分の人生を考えられないのだろうか?
ふと,僕はそんな疑問を持った。

●僕はせっかちだ。なんでもすぐに実行しないと気がすまない。強迫観念にとらわれるように,
即断即決即実行タイプだ。
でも,なんでそうなってしまうのだろう?
妻との何気ない会話から,答え探しは始まった。

●父から小さい時から聞かされていたことがあった。
「うちの家系は,男は長生きしないんだ。おまえのおじいちゃんも俺が中学の時亡くなった。兄
貴も事故で若死にした。だから,俺もそんなに長生きしないよ。きっと」
子供心になるほど長生きできないんだ,と聞いていた。
そんな父も52歳で,肝臓ガンで急逝した。
うちの家系の男は長生きしない。そんな言い伝えを自ら証明してしまった父だった。

●まだこれからと言う時に亡くなってしまった父と小さい時から
聞かされていた言い伝えは,僕の心に「時間はないぞ」という傷を無意識に刻み込んだ。
僕は会社を継いでからも,何かにせき立てられるように,いろいろな新しいことを試みた。
関連会社も作った。新業態も作った。次々と出店し組織改革も断行した。
何かにとりつかれているようでもあった。
「時間はないぞ」
そうだ,俺には時間がないんだ。急がねば。皆が寝ている間にも働け。
「時間はないぞ」
その声が,僕をずっと追いかけていた。

●「俺は,そんな10年先のこと,あんまり考えられないんだよね。なんでかな,と思ったんだけ
ど,俺,ずっと長生きできないって自分で信じていたんだ。だから,なんでも早くやらなきゃって
思ってきたんだ」
「ふ〜ん,そうなんだ。」
妻は洗い物も終わり,ダイニングテーブルに一人座って煎れ立ての濃いコーヒーを飲んでい
た。
「今でもそうだけど,長生きできないって思うから,あせってなんでもすぐにやってしまうんだ。そ
れで失敗して。君みたいに10年くらい先を見て今から計画しようなんていう気は,僕には絶対
起きない。だって,どうして10年後に生きていられるって確信が持てるんだ?いつ死ぬか,わ
からない。だから,今できることは今したほうがいいんじゃないか。旅行だって,今行かなきゃ
死んじゃうかもしれない,って考えちゃうんだ。」
「ふ〜ん,どうして死んじゃうって思うの?」
「だって,オヤジだって52で死んでるんだぜ。うちの家系の男は早死にするんだ。俺だって長
生きしないよ,たぶん。」
「そんなふうに思っていると,ほんとに死んじゃうわよ。」いたずらっぽく妻は笑った。
「オヤジの死んだ歳の52っていうのが,今の俺の目標かもしれないな。52まで生きたら,その
後の人生は,儲けもんって考えられるかもしれない。う〜ん,52まで生きたら,もしかしたらそ
の後はあくせくしなくなるかもしれないな。だって,52まで生きたらその後は道しるべがないよう
なもんだから,ずっと長生きするかもしれない。80,90までね。そう考えると,今と違って,もっ
とゆったりといろんなことを考えることができるような気がする」
「男の人って,父親の亡くなった歳が気になるって聞いたことがあるわよ。そこが一つの区切り
なんだって。」
「そうだよな。今まで俺はオヤジの歳までしか生きられないって勝手に思い込んでやってきたよ
うな気がする。でも,今更それは捨てられないよ。やっぱり52まで生きて,それから人生がま
た変わるんじゃないかな。52までは,わかっていても時間がないぞって,あくせく働いてしまう
ような気がする。」
「父親と息子って,いろいろあるのね。わたしなんかのんびり考えちゃうけど」
「そうだな。あんまり考えたことなかったけど,オヤジの享年って意識しているのかもな」
「じゃ,あなたの52歳の誕生日は,新たな門出ね。盛大に祝ってあげる。楽しみにしていて
ね。」
コーヒーカップを両手で包みながら,妻はまたいたずらっぽく笑い,言った。

外は,冬にしては久しぶりの長雨。明日は小春日和だそうだ。
「明日は仕事休んで,みんなでどっか行くか!」
「あら,イタリアは無理よ。ボーノしかまだ知らないんだから・・・」


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